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週2日、福津市を走るタクシードライバーとして“福津市の観光情報”を発信中です。ただ2008年から2023年まで福津を離れてたため、同時に福津市の魅力を探し、再発見する日々を楽しんでいます。
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ここが世界遺産?福津市・新原奴山古墳群と宗像一族の歴史|神道の始まりの地を歩く

heitai
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「なぜここが世界遺産なの?」
「ただの田んぼやん」

新原奴山古墳群について、地元でこんな声を耳にすることがあります。

けれどそれは、歴史を知らず、見た目だけで判断してしまっているからかもしれません。

古墳街道から見る前方後円墳

この古墳群を理解するうえで重要になるのが、
福津市が合併する前の地名「宗像郡」という言葉です

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そこで今回は、歴史探偵の私が、新原奴山古墳群の魅力と歴史を徹底解説します。

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世界遺産の新原奴山古墳群とは?

福岡県宗像郡津屋崎町(現・福津市)にある5~6世紀ごろの古墳が集まった遺跡群です。

前方後円墳や円墳など40基以上の古墳がまとまって残り、古代にこの地域を治めた宗像の有力者たちの墓と考えられています。

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ちなみに津屋崎は、約25年前まで「宗像郡津屋崎町」でした。

沖ノ島の祭祀を担った宗像一族の歴史を伝える重要な遺跡として、
2017年に世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群に登録されました。

邪馬台国の卑弥呼と宗像一族は関係があった?

邪馬台国の女王・卑弥呼と宗像一族に関係があるの?
そう不思議に思う方も少なくないでしょう。

卑弥呼は西暦239年、中国の魏に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号や、金印・銅鏡などの威信財を授けられました。

現在の糸島市(伊都国)が邪馬台国の海外窓口だった

AIが生成した画像

『魏志倭人伝』には、伊都国(現在の糸島市)が邪馬台国の海外窓口となり、中国の使者が駐在していたことが記されています。

そして注目すべきは

卑弥呼の死去とほぼ同じ時期から、宗像地域の有力勢力が歴史の表舞台に現れ始める点です。

卑弥呼の死去と同時に宗像一族が歴史の表舞台に

魏志倭人伝によると、卑弥呼が亡くなったのが西暦249年ごろです。

宗像地域の有力勢力が歴史に現れ始めるのは、
卑弥呼の没後とされる3世紀後半以降と考えられています。

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もしかすると宗像一族も、邪馬台国の女王・卑弥呼と
何らかの接点を持っていたのかもしれません。

そう想像するだけでも、歴史のロマンに胸が高鳴ります。

なぜ古代史は謎が多い?

古墳群を歩くルート

当時の日本には文字文化が十分に広まっておらず、古代の出来事を直接記した記録はほとんど残っていません。

そのため邪馬台国の位置をめぐっては、九州説や畿内説など議論が続き、いまだ多くの謎が残されています。

中国の歴史書『魏志倭人伝』を主な手がかりとして研究するしかなく、古代日本史には不透明な部分が多いのが実情です。

神道の始まりと宗像一族の伝説

AI生成画像

宗像三女神を祀る宗像大社は、日本神話の舞台でもあります。

神道のはじまりは諸説ありますが、
海の神さまを大切にした宗像の祭りは、神道に大きな影響を与えています。

Wikipediaを引用〜神道の歴史

宗教としての神道の始期に定説はないものの、こうした信仰は、古墳時代に大和王権によって国家祭祀として列島各地に広められた。最初期の神社である宗像大社や大神神社などで祭祀が行われ、神道の原型が形成された。

出典先:神道の歴史〜Wikipedia

もちろん、Wikipediaの情報だけで歴史を断定することはできません。

しかし、宗像大社を中心に北部九州で影響力を持った宗像一族が、神道の形成に関わった可能性は十分に考えられます。

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その信仰の歴史と価値こそが、宗像・沖ノ島関連遺産群が
世界遺産として認められた理由の一つだと私は考えています。

宗像一族は何がすごいの?大和朝廷との関係と神話

みやれ祭に参加した時の写真

卑弥呼の死後、3世紀後半から4世紀にかけて、
大和の地を中心とするヤマト王権が、次第に歴史の表舞台に現れてきます。

大和政権下の中で宗像一族が担ったのが「宗像三女神の祭祀」です。

宗像三女神の祭祀とは?

宗像三女神は、古事記や日本書紀に登場する神々です。

天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約によって生まれ、海の守護に関わる存在として語られています。

つまり宗像の神々は、地域の神様というだけでなく、国家の神話体系の中に組み込まれた存在でした。

『古事記』での記述

天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が行った
誓約(うけい)という神事の中で誕生した女神たちとされています。

このとき生まれたのが、のちに宗像の地に祀られる三柱の女神です。

『日本書紀』での記述

日本書紀でも同じく誓約の場面が描かれ、
三女神は海の守護に関わる存在として位置づけられています。

その後、九州北部の宗像に降り、祀られるようになったと伝えられます。

宗像一族が担った役割

世界遺産の古墳街道を散策

宗像氏は、大和朝廷の中で、宗像三女神の祭祀を司る一族として重視されました。

古代日本の政治は、神への祈り=国家運営でした。

そのため宗像の祭祀を担う立場は、国家機能の一部を任されていたともいえます。
宗像一族は、海の守りを専門に担当する国家祭祀の責任者だったのです。

具体的な“役職名”は?

  • 神社の最高責任者(大宮司)
  • 朝廷の神祇行政に関わる立場

後の時代になると、このような役職を宗像氏は世襲していきます。

✔ 朝廷から特別に祭祀を任される
✔ 国家規模の儀式に関与し
✔ 神話の中にも位置づけられる

という点が、何よりの格の高さを示しています。

どれくらいすごい?令和天皇も訪問?

前方後円墳

凄さをイメージで言うなら、国防や外交に直結する“海の神”を任された一族です。

そのため海洋民族・宗像氏と呼ばれ、地方豪族の中でも別格の扱いだったと考えられます。

また、近年においても徳仁(令和天皇)が、皇太子時代に宗像大社を訪問されており、
現在に至るまで重要な神社であることが分かります。

まこと
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地元民はなんでここが世界遺産なん?と言いますが、歴史を知るとすごい古墳群だと思いませんか?

現地・新原奴山古墳群に行くと何が見えるの?

たしかに、歴史を知らずに新原奴山古墳群を訪れると、
「世界遺産」と聞いて思い浮かべる壮大な建造物との違いに、少し戸惑うかもしれません。

けれど、田園風景の中に古墳が静かに溶け込むこの景色は、都会ではなかなか出会えない特別なものです。

派手な観光地ではありません。
だからこそ、想像力が広がる余白があります。

過去から紡がれてきた物語を、風景の中に感じる。
それが新原奴山古墳群を訪れるいちばんの魅力です。。

さいごに

新原奴山古墳群の入り口

この記事では、世界遺産である新原奴山古墳群を訪れたときに
より深く楽しんでもらえるよう、

  • なぜ世界遺産に登録されたのか
  • 宗像一族とはどのような存在だったのか

という、内容の歴史を中心に紹介してきました。

およそ1500年前、
邪馬台国の時代が終わり古墳時代へと移り変わる中で、
宗像地域には大きな力を持つ勢力が存在していたと考えられています。

その人々が眠っているとされるのが、この新原奴山古墳群です。

華やかな観光施設があるわけではありません。

けれど背景にある物語を知ったとき、目の前の風景はまったく違って見えてくるはずです。

まこと
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歴史を感じながら歩く世界遺産。
その価値は、決して小さくないと私は思います。

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